【略 歴】
1925年(大14) | 捜真女学校卒業 |
1925年(大14) | 東京女子大学入学 |
1928年(昭3) | 8月、長野県諏訪高等女学校赴任 |
1980年(昭55) |
3月まで52年間国語教師として教鞭をとった 退職後、「大村はま国語教室の会」を結成、日本の国語教育の向上に努めた |
1963年(昭38) | 広島大学教育学部「ペスタロッチ賞」受賞 |
1982年(昭57) | 勲五等瑞宝章 受章 |
2005年(平17) | 逝去 |
【著 作】
『大村はま国語教室』全15巻 別巻1
『教師大村はま96歳の仕事』
『学びひたりて大村はま自叙伝』 他多数
大村はまさんは、1920年(大正9)2年生の2学期に捜真女学校へ転入しました。そして、はまさんの人生に大きな影響を与える先生方に出会います。その一人が、国語の川島治子先生です。作文と言えば、当時は定型的な、型どおりな文章で書かなければ先生に読んでもらえない時代、はまさんは作文が大嫌いでした。しかし、捜真へ転入し、恐る恐る自分の気持ちや考えをそのままに書いた作文を提出したところ、川島先生は叱らず許してくれました。それ以来、作文が好きになっていきます。授業時間内に作文が書ききれなかった時は、白い塔の校舎(1945年5月横浜大空襲で全焼)の、塔のてっぺんの見晴らしのよい部屋で一人没頭して書き続けました。家族のこと、友人のこと、多くの作文が「大村はま国語教室」別巻に残っています。こうして、はまさんにとって国語は一生離れられないものになっていくのです。
ある時、美しい字が書けずに悩んで小倉遊亀先生に相談したことがありました。その時の小倉先生からいただいた言葉、「字を書くときに、いつも、ちょっときれいに書こうと思うといい。」は、生涯大事にした指針の一つになりました。
もう一人の大切な恩師が宣教師のビッケル先生です。はまさんは3年生の終わりに経済的理由で学業を続けられなくなります。この時、匿名で学費と生活費を援助したのがビッケル先生です。そして、はまさんにミッションを与えます。「将来、伝道か教育の仕事をしてほしい。お金は返さなくてよいから、勉強が好きで貧しい子どもに出会ったら助けてあげるように。」このミッションは、はまさんが98歳で亡くなるまで心の中にありました。亡くなった日、机の上に残された詩を紹介します。
[優劣のかなたに]
優か劣か
そんなことが話題になる、
そんなすきまのない
つきつめた姿。
持てるものを
持たせられたものを
出し切り
生かし切っている、
そんな姿こそ。
優か劣か
自分はいわゆるできる子なのか
できない子なのか、
そんなことを 教師も子どもも
しばし忘れて、
学びひたり 教えひたっている、
そんな世界を 見つめてきた。
学びひたり 教えひたる、
それは優劣のかなた。
ほんとうに 持っているもの
授かっているものを出し切って、
打ち込んで学ぶ。
優劣を論じあい
気にしあう世界ではない、
優劣を忘れて
ひたすらな心でひたすらに励む。
今は できるできないを
気にしすぎて
持っているものが
出し切れていないのではないか。
授かっているものが
生かし切れていないのではないか。
成績をつけなければ、
合格者をきめなければ、
それはそうだとしても、
それだけの世界。
教師も子どもも
優劣のなかで
あえいでいる。
学びひたり
教えひたろう
優劣のかなたで。