花咲く同窓生

多様化する社会の中で「地の塩、世の光」としてたゆみない歩みを続けている卒業生を紹介します。
既に神様のもとに召された方々に対しても、記憶にとどめ、敬意を表したいと思います。
1978年卒業(高30)

ネフ吉田玲子

Naef Yoshida Ryouko
ピアニスト オルガニスト (スイス在住)

【略歴】

1963年

3歳半でピアノを始める 山岡優子、安川加寿子、園田高弘、室井麻耶子に師事

1968年 全日本学生コンクール小学校ピアノ部門で入賞
1972年 捜真小学校6年に編入
1978年 捜真女学校卒業
1978年 桐朋学園大学音楽学部ピアノ科入学
1982年 桐朋学園大学音楽学部ピアノ科卒業
1983年 ジュネーブ音楽院大学院ピアノ科へ留学
1986年 ジュネーブ音楽院大学院ピアノ科を首席で卒業
1987年 ジュネーブ音楽院大学院オルガン科入学
1988年

フリブール サントモーニスカトリック教会主任オルガニストに任命される
フリブール州立音楽院、フリブール州立エコールノーマルの教授に任命される

1991年

ゲーザアンダ国際ピアノコンクール入賞

その後ヨーロッパ各地にて演奏活動

2009年

崖から2m50cm落下事故で両手首複雑骨折
演奏活動一時中止

 

《捜真の思い出と学んだこと》

 捜真に入学当初から、「ピアノ中心の生活」という親から強いられた環境に対して無意識に反抗を続けてまいりました。今、振り返りますと何と傲慢な、、、と後悔致します。点々と散らばって心に残っている苦しくも楽しくもある思い出を振り返ってみます。

・元々水の怖い私。厳しい水泳の授業前になると、緊張で自然と体温が上がり、保健室に駆け込む。不思議にも体温計が実際に上がっていくのを見て、首を傾げていらした片山昭子先生。

・院展に入選していらしたほどの美術の先生。静物画の授業中、「貴女の絵にリズムが欲しい」と言われて大ショック!リズム感抜群なはずのリョウコさんではなかったか? あわててテーブルクロスに格子の柄を付け足した。還暦を迎えるこの歳になっても「絵画のリズム感」の意味が未だわからず・・・

・ピアノのスパルタ教育という特殊な環境に置かれ、レッスンの時間に間に合わせるために放課後の掃除に参加できず、皆に迷惑をかけてしまった辛い経験。

・合唱コンクールで内藤真由美さん指揮、ヨシダリョウコ編曲・伴奏で「怪獣のバラード」を歌い、中1にして3位に入賞。クラス中が歓喜に沸いた。

・数学の授業中、坂東先生に「吉田、次の問題の答えは?」と突然指名され、まずい!教科書、ノート共々30ページほどあわてて戻り、難なく答えたことに驚かれ、私のところへやってきて、「君、何をしているんだい?フム、フム、、、こんなに先まで進んで、僕の授業つまらないのかな?」と、お見通しだった。

・受験が迫り、ピアノより数学をと御茶ノ水にある駿台の理数系の予備校に通った。周りは全て男子ばかりの中で、全くついていけなかった私を、片山功仁慧先生は嫌な顔ひとつせず、難問の練習問題を時間無制限でご指導くださった。

・張り詰めた空気のなかで行われたヘンデル・メサイアの高度な授業。安藤寿々代先生のハレルヤの合唱練習は今でも耳奥に残り、クリスマスになると歌詞も忘れず、歌いたくなる。

・1日36時間あったのか、、、と思うほどのハードスケジュールにもめげず、下校の際、級友達と通ったミスタードーナッツ。

などなど、限りなくなつかしい捜真時代。

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