花咲く同窓生

多様化する社会の中で「地の塩、世の光」としてたゆみない歩みを続けている卒業生を紹介します。
既に神様のもとに召された方々に対しても、記憶にとどめ、敬意を表したいと思います。
1949年卒業(高1)

内田 恵美子

Uchida Emiko
社会福祉活動

【略歴】

1949年(昭和24)

捜真女学校卒業

1953年(昭和28)

東京女子大学 日本文学科卒業

1953年(昭和28)

関東学院中学 国語教師着任

1954年(昭和29)

横浜共立学園へ転任、翌年退職

【社会福祉活動の歩み】

Step1 「全生園」 1971年頃(昭和45)

ハンセン病療養所「全生園」のカトリック信者の集会に目の不自由な信者の朗読奉仕者として、7~8年参加、生きることの真実を目の当たりにする

 

Step2 「東京いのちの電話」 1978年(昭和53)

ボランティアとして参加、相談員として心を病む人たちを知る

(イギリスで誕生した自殺防止の電話相談)

 

Step3 社会福祉法人「横浜いのちの電話」設立 1980年(昭和55)

東京と同じように横浜にも必要と考え、相談員の募集・研修など実現に向け奔走。生きにくい人、心を病み、死と向きあう人と関わる(20年間)

 

Step4 社会福祉法人「恵友会」設立 1996年(平成8)

  • 精神障がい者生活支援 組織(65歳から13年間、関わる)
  • 資金作り、地域住民の理解など難問題解決に5年を要した
  • 心を病む人たちの居場所と生活を支えるグループホームから始まる
  • 障がい者のニーズに応えて事業を拡大、現在市内に13の施設がある

グループホーム7

栄区南区生活支援センター各1

地域活動支援センター1

就労継続支援B型2

居宅介護事業所(ヘルパー派遣)1

 

Step5 現在自宅開放型サロン「花もよう」週2回開催

地域の高齢者やグループホームの人たちのふれあいのサロンとして自宅を開放している

 

【捜真女学校時代】

 毎朝、上級生の弾くピアノ演奏が流れる中、1年生を先頭に背丈の高い5年生まで順々にしとやかに礼拝堂に入場するのを、胸が熱くなる思いで見守っていた。やがて自分達もあのお姉さんのように凛々しくなれるのだと思っていた。

 

 横浜大空襲のその日、学校に登校していた生徒は、先生の誘導で校舎の土手に掘った防空壕に走って避難した。B29の大編隊は雨のように焼夷弾を落下させた。私達は誰も騒がず、じっと堪えていた。壕の中は湿気があり、私は滑って履いていた下駄の鼻緒が切れてしまったことに半ば気を取られていた。

 爆音が遠のいて外に出てみると、今朝まであった捜真のシンボルの白い塔も毎朝礼拝を行っていた講堂も校舎も、炎と白い煙が立ち込める中で跡形もなく崩れ落ちていた。全く景色が変わり、煙に覆われた瓦礫の向こうは、今まで校舎で遮られて見えなかった私達のさつまいも畑まで見渡せるほどだった。

 

 10月に入ると、5ヶ月振りに姉妹校である関東学院の教室を借りて2部授業を再開することになった。散り散りになっていた生徒は集まってきて、110名の同期生は、教科書や文具が不自由の中、それでも笑顔あふれる教室で戦争のない平和な幸福感いっぱいの学生生活を味わった。

 その後、中丸の丘にもどり、充分に学べる授業でなかったにしても、私は生きている実感を味わいながら、心のこもる日々を送ったと思う。

 ミッションスクールゆえに、自然体で得られた神への信仰、その中で生かされていることを感得してこられたことに感謝している。

自分史「こころ模様」から

【スローガン】

有限実行の人でありたい。普通なら有言実行だが、もう限界を感じながら身体的弱さを認めながらも働いている人でありたい。

常に何かを求め、考え、進歩する人でありたい

 

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