花咲く同窓生

多様化する社会の中で「地の塩、世の光」としてたゆみない歩みを続けている卒業生を紹介します。
既に神様のもとに召された方々に対しても、記憶にとどめ、敬意を表したいと思います。
1956年卒業 (高8)

シュペネマン-大島偕美

Schpenemann Ohshima Tomomi
大学教授
【略歴】

1956年

捜真女学校卒業

1960年

国際基督教大学卒業 社会学専攻

卒業後、フルブライト奨学生としてシカゴ留学(シカゴ警察の依頼で虞犯少年の事例調査及びグループ・スタデイをする)修士号取得

西ドイツ学術事業団(DAAD)の留学生として、ハイデルベルク大学博士課程を修了

この間、ドイツ人、クラウス・シュペネマンと結婚。二男一女の母となる。

1970年、クラウス(現在同志社大学名誉教授、関西セミナーハウス館長)が日本からの招聘を受け、京都下鴨に住む。

京都大学文学部東洋史研究室海外研究員から、京都大学法学部に再入学、卒業。正規の学生であると同時に、教鞭をとり、同志社大学、大阪、滋賀各大学で社会学およびドイツ語講座を担当

2010年引退。その後205回にわたる環境及び国際社会学講座を継続中

宇治教会役員、2015年から滋賀、両端、京都3地区女性部の委員長を務める。

 

【プロフィールに寄せて】

常時通知簿に指摘される程の超内気な性格だった。捜真女学校入学と同時に、YWCAその他の活動で、いつしか、物怖じしない性格に。

国際基督教大学入学後、武蔵野の施設などを定期的に訪れる地域社会福祉委員に。夏には、国際Work・Campで群馬県内の児童養護施設、子持山学園の建設を手伝い、多くの新聞にも掲載された。山形県上山にて、大学教会から派遣された教授、学生8人と、地域活動を行う。武蔵野団地で初の家族調査、および千葉県長生郡で香典帳を用いた村落の合力関係を分析し、これが卒論にもなった。家族問題の学生委員として東京家庭裁判所で種々な事例と向き合う。捜真女学校で培われた性格変化と、もう一つ、女子寮で「寝ない競争で優勝し」、高熱のため、校医日野原重明先生の前に連れていかれた事がある。事情を知った先生は、「君には命がいくつあるのか」「そんな馬鹿には治療できない」と叱られたことがいつも頭をよぎる。でも、アメリカ・シカゴでは、警察官も怯む危険地域の調査にも出かけたが、無事に修士号を得た。帰国のためのフルブライト奨学金を断り、当時の西ドイツに赴き、政府より奨学金を得る。この間、クラウスと結婚、ハイデルベルク大学で教え且つ学ぶ生活だった。3児が授かる。勉学続行。帰国後も、日野原先生のお叱りにも拘らず、京大文学部の研究員生活を続ける。法学部再入学後も週に三日、集約して講義し、残り三日を法学部授業出席にという暴挙の果て、無事卒業。家に戻れば主婦としての生活は工夫の連続だった。その後も、翻訳や原稿、講演、講座準備、ケーキを焼き、教会役員として勤め、水墨画を描き(小倉遊亀先生がきっかけ)、水泳、絵画、読書をし、毎日を新しくワクワクしながら楽しみ、心と体を他の人の喜びになるよう現在に至っている。

ここで、私の生きざまの一端を羅列しただけではない。このたった一つしかない、かけがえのない命を主が支え、用い、数多くの奇跡が行われてきた恵みの80年間の報告なのだ。                             

2018年9月15日京都、城陽にて

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