2020年11月
捜真の卒業生について独特だなと感じるのは、「チャペル(礼拝)に出るために母校に帰ってくる」という文化があることです。
特定の先生に用がある場合はアポを取るのでしょうが、友人と誘い合わせてふらっと来て、チャペルで讃美歌を思い切り歌って、ついでに先生たちに声をかける、というケースが多いように思います。どの先生に会えるかは不確定ですが、チャペル礼拝だけは毎日確実に行われているからです。
しかし、新型ウイルスの影響で、この文化が奪われてしまいました。
そもそもチャペルに大勢集うことができなくなりました。讃美歌も皆で声を合わせるということがしづらくなりました。
特にこの春卒業した皆さんにとっては、本来なら新生活の報告をしつつ、なつかしのチャペルに出るはずだった時期に緊急事態宣言が出てしまい、帰ってくるなと言われてしまったわけです。
一方で、新しい文化が生まれました。
捜真のホームページに掲載される礼拝メッセージです。
「場」としてのチャペルに身を置くことに意味があるのはもちろんですが、物理的に足を運ぶことができない卒業生でも先生方のメッセージを読むことができるようになったのです。多くの反響があったと聞いています。
私の最新のHP礼拝は、「TOPICS 11月5日礼拝メッセージ」です。
ネガティヴ力士とネガティヴ作家とネガティヴ修道女を紹介しました。
その後、新大関正代は怪我をして早速休場ですね。「痛いというより怖い」と言っていたという記事を見て、相変わらず正直だなと思いました。
絶望名人の作家カフカは、中1中2向けの礼拝には難しいと感じるかもしれませんが、私のクラスにはカフカを読んでいる中1がいるのです。卒業生の皆さん、ぜひ読んでみてください。笑えます。そして深いです。
マザーテレサが心の闇や孤独を綴った手紙については映画化されていて、先日その『マザーテレサからの手紙』をDVDで観ました。「私は神の鉛筆です」というセリフが印象的でした。マザーテレサの苦しみは、自分の中に聖霊が注ぎ込んで、いわば神さまに乗っ取られてしまった苦しみなのではないか、などと考えてしまいます。そして、それは苦しみであると同時にあふれんばかりの恩寵なのだと。
最後に「世にまじりて世におちず」の私訳を紹介します。(この春卒業した皆さんには昨夏「捜真だより」に載せました。)
ある日「英語で何て言うのかな」と聞かれて突然思いついたのです。
”Involved , but not dissolved in the world.”
隣り人を愛するクセのついた捜真生は卒業後、いわゆる「ディアスポる」ことが多いと思いますが、神さまに愛されている自分が溶けてなくなってしまうことは決してないでしょう。
「自分の命を得ようとする者は、それを失い、
わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」
(マタイ10:39)
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
(ヨハネ3:16)