『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、
わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。』
この春、私は47年ぶりに二度目の卒業をいたしました。次の文章は終業式で生徒に向けた退職の挨拶です。
先日読んだ本の1ページ目にこんなことが書かれていました。「人の価値は財産ではなく、他人と分かちあったものの量」。
私が教師という仕事についたのは、今から14年前の50歳の時です。捜真の小中高とのんびり過ごし、大学ではスキー三昧、社会人として10年、その後子育てを経験する中で、若い人たちに伝えたいことがみつかりました。それは自分自身にとっても「こうありたい」と思う3つのことです。今日は皆さんより50年近く長く生きてきた私から、その伝えたい3つのことをお話ししたいと思います。
1つは、人と人とが出会って関わっていく中では、お互いに信頼することがとても大切だ。ということです。皆さんは自分の周りの人とうまく関わることができていますか?これは中々難しいことです。ただ、そのために出来ることがあります。それは「誠実であろうとすること」です。完全に誠実な人はこの世にはいないでしょう。でも、誠実であろうとすることで、その気持ちは伝わります。ごめんね。ありがとう。この言葉がとても大切です。
2つ目は、皆さん自分の思うとおりに行かない時、自分が正しいと思っていることを否定された時、どんな気持ちになりますか?とても悲しくて寂しくて体が動かなくなったり、怒りがこみあげ、投げ出したくなったりすることはありませんか。私にもそういった事があります。
ある時知人に相談したところ、こんな言葉を教えてもらいました。「去る者は追わず、来るものは拒まず。」そうか、自分を理解してくれない人とは離れてしまえばいいのか。簡単簡単と一瞬思いましたが、本当にそれでいいのかなと不安にもなりました。そうなんです、この言葉には続きがあるのです。「去る者をすぐに追いかけなくてもいい。ただ、いつか戻ってくると待つことはできる。時を待てば、互いに許すことができる。」このことに気づくまでには随分時間がかかりましたが、現実に関係が戻ることが何度もありました。
3つ目は、「正解を探さなくてもいい」。人が思う正解は一人一人違います。何が正しいのか、何が間違っているのかを悩むのであれば、小さくてもいい希望を持って欲しいと思います。悩むことは孤独に向かいますが、希望は未来を広げます。もちろん、一緒に未来に向かって共に歩める人がいてくれたら幸せなことですね。
捜真での14年間を振り返ると、「楽しかった!」の一言です。若い皆さんと同じ時を過ごすことは私にとっては大きな大きな恵みでありました。総合の授業の中で、図書委員会の活動の中で、かつてのダンス部顧問として、学年の副担任として、他にも廊下で「おはようございます」と挨拶を交わす時、バスを待つ学校の前で「お疲れ様」とおしゃべりをする時。いつも楽しかった。
けれども、定年を迎えて、捜真から離れる時がいよいよやってきました。これからは、ご存じの方も多いと思いますが、横浜こどもホスピスで医療的ケアを必要とする子どもたちのそばでボランティアが出来たらと思っています。将来、大学生社会人になり皆さんの中から、一緒に子どもたちに関わってくれる人が出てきてくれたら嬉しいなと思っています。
最後になりましたが、今日まで支えてくださった先生方、そして、愛する生徒のみなさん、再び母校に呼んでくださった神様に心から感謝をして、退職のご挨拶とさせていただきます。皆さんとまたどこかでお会いできる日を楽しみにしています。
ありがとうございました。
この春に教え子が海外に赴任することとなりました。一人はアメリカ、もう一人はベトナム。若い女性が一人で海外に赴任することは、私の時代ではとても珍しいことでした。しかし、昨今は実力があれば男女の関係なく社会で活躍する機会が与えられます。
生徒たちには、捜真の学校生活で学んだことが、社会に出てからの拠り所になり、卒業生として世の中でどのように生きていくかに目を向けて欲しいと思っています。
在職中にある先生とこんなお話をしました。
「在校中の学習や部活、ボランティアなどの学校生活が、社会での活躍とその後のライフワークにもつながって欲しいですね。捜真での6年は貴重な時間だと思いますが、卒業してからの50年60年は長く重みのあるものです。捜真生だった私たちも神様からいただいたタラントを活かし、社会とつながる人生を送りたいですね。」
神様に導いていただいた捜真での実りが社会につながった時、神様が望まれるもう一つの実りとなるのではないでしょうか。
教師は子どもたちの可能性を広げ、成長を見守ることが仕事でした。これからの時間は私自身も卒業生としてぶどうの一枝に実を結んでいけたらと思っています。
2024.5.9公開