捜真ノート

母校に対して誇りに思っていることや、同窓生の経験を分かち合うページです。

日本を代表する女流日本画家 小倉遊亀先生

 入学式、卒業式、同窓会総会-折々の式典に壇上に飾られる「捜真女学校校旗」(書は沢野三郎先生)を皆様も良くご存じでしょう。
 あの格調高い校旗をデザインされたのは日本を代表する女流画家でいらっしゃる小倉遊亀(旧姓溝上)先生です。

 

 出典:アサヒグラフ1995年12月15日号

 

 小倉先生は、滋賀県大津市ご出身。幼いときから画才に恵まれ、将来は画家として活躍したい、との夢を抱くようになりました。奈良女子高等師範学校(現 奈良女子大学)国語漢文部をご卒業され、教職の道へ進まれました。この頃から日本画家 安田靫彦画伯に魅了されていたとのことです。

 

「受洗を謳う」1936年(昭和11年)

 

 その後、奈良、京都の学校での教鞭を経て1920年捜真女学校教諭にご着任。担当は国語、漢文、図画でした。同年、長年憧れ続けた安田靫彦画伯を大磯に訪問、弟子入りを許されました。

 捜真での授業は午前中に集中させ、午後は大磯へ画業修行の毎日でした。この頃は病がちなお母様を抱え大変な時期であったそうです。小倉先生は「自分も捜真の同窓生と思う。」とおっしゃるほど感謝しておいでです。その気持ちを何かで表したいと、創立90周年には小品10数枚を売ったお金を捜真にご寄付くだいました。それがユキホール命名の由来です。

 1922年日本美術院展に出展入選し、以後続けて院展に出展。1932年には、女性として初めて日本美術院同人に推挙されています。

 

「夏の客」1942年(昭和17年)

 

 1936年捜真女学校を退職。写生のため訪れた鎌倉で鉄樹庵を訪問し、小倉鉄樹氏と出会われ、1938年ご結婚。鎌倉に住まいを移されました。

 

「O夫人坐像」1953年(昭和28年)

 

 その後もご活躍はめざましく、作品を世に送り出し続けられました。
 遊亀先生の画風は「清純、新鮮、風雅に富み、つよく、厳しく美しい」と評されています。
 1976年日本芸術院会員に任命され、1978年には文化功労賞受賞、1980年に文化勲章が授与されました。この間に日本美術院理事長に就任、日本画壇の発展にも尽くされました。2000年7月23日105歳でご逝去、従3位に叙されていらっしゃいます。

 師の安田画伯の言葉「1枚の葉が手に入ったら、森羅万象、みな手に入る」を大切に、晩年まで庭の木々、花々の写生を欠かさず、画業に励まれました。

 

 「牡丹」1987年(昭和62年)

 

 先生が捜真を懐かしみ、感謝のお心を込めてデザインされた校旗は残念ながら空襲で焼けて、現在のものは再現された2代目となります。しかし昔に変わらず今も捜真の歩みを見守り続けています。

 

 

 

 

{小倉遊亀先生 略歴}

小倉遊亀先生(旧姓 溝上)略歴

 1895年(明治28年) 溝上みぞがみ巳之助みのすけの長女として誕生(滋賀県大津市)
 1920年(大正9年) 捜真女学校教諭に着任 担当教科 国語 漢文 図画
           安田やすだ靫彦ゆきひこ氏に入門
 1922年(大正11年) 日本美術院第8回試作展に「静物」が入選する
           この頃から院展に続けて出展
 1936年(昭和11年) 捜真女学校 退職
 1938年(昭和13年) 小倉鉄樹氏と結婚
 1978年(昭和53年) 文化功労者として表彰される
 1980年(昭和55年) 文化勲章 受賞
 2000年(平成12年) 7月23日、急性呼吸不全のため聖路加国際病院にて逝去される

 

アイキャッチ画像:「径」1966年(昭和41年)

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