捜真ノート

母校に対して誇りに思っていることや、同窓生の経験を分かち合うページです。

ケニア日記4(最終回)

(2年間お世話になったバナナ農家さん一家と。彼のパッションに私もたくさん刺激を受けました)

ジャンボー!(ケニアの公用語スワヒリ語で「こんにちは!」)

私は先月まで、東アフリカのケニアで青年海外協力隊員として活動しておりました。無事に2年間の活動を終え、日本に帰国して1カ月が経とうとしています。

日本に帰って来てほっとしている反面、快適であるがゆえに淡々と進んでいく毎日に何となく物足りなさも感じる今日この頃です。

この2年間を一言でまとめることはとても難しいですが、なかなか経験のできない貴重な時間を過ごせたと思っています。以前勤めていた会社を退職する決断は非常に長い時間悩みましたが、大きな決断をしたからこそ今の私があり、この決断をして良かったと思っています。今回は最後の投稿となりますので、ケニアでの生活を通して感じたこと、考えたこと、そして今後の展望を書きたいと思っております。

まずは、アフリカに対する印象の変化。「百聞は一見にしかず」と言いますがまさにこれだという経験をしました。アフリカといってもまだケニアしか知りませんが、少なくとも私が渡航前まで持っていた印象は「危険」「貧しい」のようなマイナスなイメージ。青年海外協力隊として派遣が決定しても、不安が消えず心配になる瞬間は幾度となくありました。
もちろん日本と比べて治安の悪さなど最低限の安全対策は必要です。しかし、ケニアには活気というか勢いを感じました。これからも成長を続けていく国なんだろうなと。

具体的に感じたことをいくつか。

・所属する部族へのアイデンティティの強さ。
ケニアには40以上もの部族が存在し、それぞれ独自の言葉や文化を持っています。「自分はケニア人」という意識よりも、「自分は○○族」という意識の方が強いです。
例え初対面でも同じ部族の人同士の会話であれば、最初は英語かスワヒリ語で挨拶し、同じ部族と分かると次の会話からはずっと現地語。
最近の小さな子どもを持つ親世代では、子どもに現地語よりも英語やスワヒリ語を話すよう日常的にルールづけをしている家庭もあります。今後社会に出てから使うのは主にその2言語だからだそうです。その考えも理解はできますが、個人的には子どもたちの現地語の記憶が薄らぐことなく、独自の言葉として受け継がれ残ってほしいと思います。

私の活動地、ケニア西部ケリチョのカレンジン族伝統の筒、ソテット。この木の筒に細かく砕いた炭と牛乳をいれ、約1週間放置し発酵させます。出来上がるのは「ムルシック」という酸っぱめの飲むヨーグルト。カレンジン族では各家庭でつくる伝統的な飲み物で、家庭によっても味が異なり、まさに「母の味」。整腸効果抜群です!
ちなみに、マラソンランナーとして活躍するカレンジン族が多いのは、子どもの頃からムルシックを飲んでいるからだ!と彼らは自慢げに語ります。

・人に無関心でない。
これは日本と比較してより強く感じます。変な意味合いではなく、人に関心がある。家族、知人、近所の人、その場で出くわした人、すべてにおいてです。
日本で知人とすれ違いざまに挨拶をするときは、一言交わすか、会釈程度ですよね。しかし、ケニアは違います。立ち止まって、相手と向き合い、握手を交わす。そして、「最近はどう?」「家族は変わりない?」と互いの近況を確かめ合います。
私の活動地域には、「Ibaibai?(あなたは今幸せですか?)」「Abaibai!(幸せです!)」と交わす挨拶言葉も。なんとも素敵な挨拶!と感動しました。

マタツ(ハイエースの乗り合いバスで公共交通機関。満員にならないと出発せず、これでもかというほどギュウギュウにお客を乗せる。ひとり一席という常識が通用しません…笑)に乗れば、自然と会話が生まれる。特に私は日本人なので乗るだけで注目の的になりますが、スワヒリ語や現地語を話せると分かるや否や、質問攻めにあい、乗車している乗客の輪の中に自然と入れてくれる。大勢の子連れのお母さんがいれば、隣の乗客が子どもや荷物を膝にのせてあげるのは当たり前。行き先が分からなければ乗客皆で停車場探しに付き合ってくれる。時には「もうしつこいよ」と思うくらいお節介なケニア人もいますが、根っこは優しい人が多いです。

・ケニア人の国民性。
マタツの事例でもわかる通り、人懐こく、お喋り好き、家にゲストが来たら大歓迎。歌と踊りが大好き。私は彼らのそういった明るさ、厳しい環境でも逞しく生きる美しさ、純粋さに何度も救われ、元気をもらってきました。
ボランティア活動がなかなか軌道に乗らず落ちこんでいた時、友人関係で嫌な思いをした時、「チンチョン」と馬鹿にする言葉をかけられ落ち込んだ時、いつも励ましてくれるのはケニア人の友人たちでした。

「美味しいチャイでも飲んで、まずは気持ちを落ち着けなよ。君が頑張っていることを僕らは知っているし、君は大切な友達なんだからね。全ては神様の計画なんだよ。だから君は君のままでいい」と。思わず泣いてしまいました。私がケニアに戻る日を待ちわびてくれている大切な友人たちとの再会が今から楽しみです。かけがえのない友人がたくさんできました。私にとってケニアは第二の故郷。

友人のBenline。楽しい時間も、悲しい時も、悩んだ時もずっと傍にいてくれた大切な友人です

・最後に私自身の変化。
気づけば心から笑っている、いい表情をして写真に写る自分がいました。
何がそうさせているのか?
ケニア人の明るさ、人に関心はあるものの細かいことを気にしない、そんな国民性が私の心を楽にさせてくれていたのだと思います。気づけば心の緊張がほぐれていました。何か不都合が起きても「ハクナ シダ(問題ないよ)」と言って受け流す性格の人が殆ど。(会議に2時間遅れてきた人が「ハクナ シダ」と言っていて、それにはさすがにイラっとしましたが…笑)

私はどちらかというと人目を気にする性格で、「他人にどう思われるだろうか」と考えすぎて行動に移すのに時間がかかるタイプ。ですがケニアでは自己主張をしていかないと、“察して”は通用しない。そして私が言った意見、思い、なにより私自身を尊重して受け入れてくれる環境だったのが大きいと思います。だからこそ、気負わず、ありのまま素の自分でいることができて心が楽で優しくいられました。

はじめて友人になった親子。2年間ずっと見守ってくれていました

そんなこんなで、山あり谷あり、日々感情の波が激しくて追い付かない、想定外のことが日常茶飯事で起きる毎日でしたが、何とか無事に任期を全うし帰国の途につきました。特に私の生活面をサポートしてくださったJICAケニアの職員さんには頭があがりません。

そして、隊員生活を終えて、私は次のステップに踏み出し始めています。
それは「社内起業家として新事業を立ち上げること」です。具体的には、アルファジリ㈱という、こちらも元ケニア隊員だった方が立ち上げた会社で、そこの社内起業家として、アボカドオイルの製造と販売の事業を起こします。

この事業で目指すのは、
・原料となるアボカドを小規模農家から買い取り、彼らに還元するしくみをつくること。
・生産拠点を農村地域つくり、雇用をつくること。

この2年間、小規模農家を訪問するなかで困難のなかにいる方々をたくさん見てきました。お金が無くて学校に行けない子どもたち、治療費が払えずに病院にかかることもできず家で寝たきりの病人。小さくとも家に畑を持っているため飢えることはなくても、やはり現金収入を得る機会の乏しさが貧困の最も根本的な原因なのです。

では、私には何ができるのか?
悩んだ末に行きついたのが、
「事業をつくることでケニアの小規模農家が定期的に収入を得る機会を提供する。そして生産拠点をつくり雇用を創出する」。

実はケニアのアボカド生産量は世界第6位。しかし約4割のアボカドは、輸送中に腐ってしまう、家庭で消費しきれない、などの理由からロスになっている実態があります。私も2年間ケニアで過ごすなかで、豊富に実をつけるアボカドの木を頻繁に見かけていました。農家さんにアボカドの実態を聞くと、やはり家庭では食べきれずに、牛の飼料か畑の肥やしになっているとのこと。

収穫期になると幹線道路沿いには出荷を待つアボカドが山積みの光景が広がります

そんなアボカドたちを収益化し、オイルとしての付加価値を加えることでケニア国内、日本や欧米など国外輸出を目指して事業化していきます。

これから私がやろうとしていることは、なかなか簡単にできる事ではないと分かっています。これから困難も苦労もたくさん待ち受けているでしょう。
でもそれでも私を突き動かすのは、「ケニアで出会った農家さんたちの生活がより良くなるよう一緒に頑張っていきたい」という強い思い。そして、この事業は確実に彼らのためになると確信しているからです。日本に帰ってきてからも、やはりケニアで見た現状がどうしても頭に浮かんでしまう。だからこそ、私の立場だからこそできることをコツコツと実践していきたいと思っています。

新しい事業を是非応援していただけたら嬉しいです。よろしくお願いいたします!!
ちなみに「協力隊 世界日記 ケニア」にも投稿しているのでご覧ください。

そして私の投稿を最後までお読みいただきありがとうございました!!
少しでもアフリカやケニアを身近に感じてもらえたら嬉しいです。

子どもたちと遊ぶ時間が何よりもの癒しの時間。彼らの未来が少しでも明るいものであってほしいし、それを作っていく一助になりたいです

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