捜真ノート

母校に対して誇りに思っていることや、同窓生の経験を分かち合うページです。

世界の舞踏家『大野一雄』&捜真ページェント

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 捜真の長い歴史のなかで、大野一雄先生は燦然と輝く存在です。“世界の大野”として舞踏の世界で目覚ましいご活躍をなさいました。しかし大野先生の人生の前半、というより大半は捜真の体育の先生でした。教員として34年、その後の嘱託でのお働きを加えると46年にわたって捜真でお勤めくださいました。

 

大野先生の体育

3_Note_Ono 大野先生が舞踏の世界に歩みだすきっかけとなったのは、捜真の体育の時間にダンスも教えなければならなかったからです。先生のダンスの授業はユニークで哲学的ともいえる内容の深いものでした。その授業を体験した高16回の岸園生さんが同窓会報34号に下記のように書いています。

 「地球を腕の中に抱くように」大野先生の授業は、いつもテーマが与えられました。1列に5,6人ずつ並び、太鼓に合わせて踊っていました。内なるものをどう表現するか、その精神性が求められるご指導は、自分自身をしっかり見つめ直すことでした。端正なお顔立ちの大野先生は、思慮深い哲学者でした。その長い手足で静かに舞いながら、「あなたの心は今何を見ていますか。」と問いかける先生に、当時どれだけ応えられていたでしょうか。でも今先生から学んだ表現の世界が、自分の中の感性として生きていることに気づかされます。」

 

舞踏家 大野一雄の世界

 大野先生が世界に名立たるご活躍をされたのは定年退職後のことでした。その発端となったのが、1980年、73歳のとき、フランスで開催された第14回ナンシー国際演劇祭に出演され、「ラ・アルヘンチーナ頌」を踊られたことでした。この作品は先生が24歳の時、帝国劇場で鑑賞したスペイン舞踏の世界的舞姫、ラ・アルヘンチーナへの思いを作品にされたものでした。「ラ・アルヘンチーナ頌」はその後国内外で30回以上公演され、大野先生の代表作となります。この作品について詩人の中村文昭氏は、公演のパンフレットで次のように述べています。

 「舞踏史30年強の中で燦然と輝く金字塔である。大野翁71歳のこの作品はその3年後のナンシー国際演劇祭でヨーロッパ文化圏に上陸し、かの地で称賛の嵐をうけ、「舞踏」を日本が生んだ偉大な芸術「BUTOH」と認識せしめた。」その後、大野先生の70歳代、80歳代の活動は欧州、北米、中南米、アジア各国に広がり、また、世界中から多くの研究生が先生の稽古場に集まって来るほどになりました。90歳を越えてもなお第一線での活動は続き、最後の海外公演は、1999年12月ニューヨーク、「20世紀への鎮魂」となりました。足がご不自由になられても、車椅子で手だけで踊り続けられ、2010年103歳で天に召されました。

 

大野ページェント(キリスト聖誕劇)

 世界中を虜にしてご活躍なさった大野先生ですが、捜真のクリスマスにも大きな足跡を残してくださいました。大野先生が舞踏という形で表現されたページェントは、まさに先生の信仰告白でした。神様の御子、イエス・キリストの誕生を喜ぶ、先生の神様への感謝が舞踏の中に溢れ出て、観るものにクリスマスの意味を伝え、感動に導いてくださいました。今なお大野先生の舞踏は大切に受け継がれ、毎年大野ページェントが行われます。これは私たちの宝物であり、財産です。

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1985年クリスマス パイプオルガン設置工事中

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